中国見聞録99:北京・大連 

 

「中国近代化による文化と歴史の考察

 

       :21世紀に向けての展望!!

 

 

注:以下の文章に添付の画像は、DV(デジタルビデオ)からの画像のです。

 

 

「序 編」

 

 99年11月17日(水)〜11月20日(土)の間、職場の慰安旅行(?)で中国へ行って参りました。

 私にとって84年10月以来、実に15年ぶりの中国大陸です。

 15年の歳月による変貌は、一言では言い表せない感慨深いものがありました。

 ニュ−スなどで見る中国の変貌は、知識としてありながらも、実際に見るとここが本当に「共産中国か?」と疑うべきことが多々ありました。

 「近代化」・「市場経済の導入」には、聴きしに勝るものがありました。

 まさに「浦島太郎状態(?)」

今回の旅行は、出発1ヶ月前に急に決まる慌ただしいものでした。

ちなみに、この旅行が決まった経緯がわかりません。(誰か教えて!!

何せパスポ−トから更新せねばならず、私もついに10年パスポ−ト(4枚目:懐かしい赤色)を取得できました。

 今回のコ−スは、「富山空港」 「大連」経由 「北京」行き・3泊4日。

 費用は、1人8万円弱(全食事付・添乗員なし/現地ガイド付)。

 15年前と比べても安い価格だと思います!

 15年前の春、初めて行った時は、10日間で1人確か35万円だった。

 2度目は同じく15年前の秋でしたが、中国政府招待の公式訪問団のため、自己負担が無かったので判りません。

 

「11月17日(水) 旅立ち編」

 

午後1時45分 (中国時間午後12:45分以下:中国時間で記述)

                           :富山空港を離陸。

 

午後3時30分 大連空港に到着。

 入国審査無事(?)通過。北京へ国内便の乗り継ぎ待ちが2時間。

 添乗員がいなくて多少不安であったが、無事に現地係(乗り継ぎまでの2時間だけのガイド:名前は忘れました。)と接触できて一安心。

 大連は、中国東北地方(旧満州)の中心都市で人口500万人の大都市です。

 日本人には、昔から馴染みが深く、日露戦争の激戦地「203高地」の旅順が近くにあるところで、だいたい判るかな?

 

【大連空港:国内便搭乗手続き】」

<1人50元(約650円)の空港税を支払ったところ。>

左から幹事・ナオフミ君、中央・稲垣第2班団長、右・Akemi女史。

 

 大都市の空港のため、当然ながら、富山空港より、立派。

 離発着の飛行機の数も多く設備も近代的でした。

 15年前は、見かける人のほとんどが「人民服」を着ていたのに、1人も「人民服」を見ませんでした。・・・驚き!

 空港警備の兵士()も昔と比べてスマ−トな制服で、昔はAK47自動小銃を携帯して威圧的だったのが、ピストルとシンプルな武装だった。

 2時間の乗り継ぎ待ち合わせ時間を利用して両替をしました。

 日本円で1万円が770元でした。

 ちなみにコカコ−ラ(15年前はそんなに無かった)が5元(約65円)。

 

午後6時 北京へ向けて離陸。

 国内便に搭乗する際の手荷物検査も簡単でした。

 これも驚き。昔は厳しかった。

  

午後7時15分 北京首都空港到着。

 15年ぶり、3度目の北京でしたが、首都空港のタ−ミナルが昔とまったく違っていたのには、ビックリ!

 今年建国50周年を記念して9月に新しいタ−ミナルになったとのこと。

 清潔さ・明るさは、昔の首都空港を知る私にとって大変驚きでした。

 

【北京空港:荷物受取り】

<この時、K課長(画面中央)、昼からの食べ過ぎで体調不良中!>

 

 汚く・暗くこれが一国の首都空港かと疑いたくなる建物だったのに。・・・・・

 電力事情のせいか、昔は室内照明の蛍光灯も3本に1本ぐらいしか点灯していなかったのに。
 だいぶ発展したのね。

 北京での現地ガイド(祝 印さん)と接触。夕飯にありつくため一路北京市内へ。

 

午後8時10分 北京市内のレストラン到着。

 空港からレストランまで30分強で到着。

 「はやい!」 空港から北京市内への高速道路が出来ていたなんて・・・

 15年前と比べてなんと車の多いことか・・・しかも車の種類の多いこと。

 15年前は、2台に1台がTOYOTAクラウン(左ハンドル)で残りは、ほとんど中国製の訳のわからないボロイ車だったのに・・・・・

 ベンツ・BMWVW・アウディ-・オペル・ローバー・ジャガ-・ルノ-の欧州車にアメ車etc。(アメ車は詳しくないので、車名はよくわからない)

 日本車では、レクサス(セルシオ)・カムリ・シーマ・アコ−ド・シビックetc

 なんと私の愛車レジェンド「KA-9や前の愛車「KA-7」まで走っているのには驚いた。

 15年前と比べて自転車が、少なくなった。私にとって北京市内の道路事情は、自転車の川のイメ−ジだったのに・・・!

 「自転車が少なくなったな〜!」

 レストランの接客係のオネ−サンが綺麗なこと。

 15年前では信じられない、セクシ−なチャイナドレスでお出迎えときたもんだ。

 

【北京市内:初めての夕食……チャイナドレスとK課長

<なぜか、体調不良もなおり復活の(?)川合課長!>

このアングル、はっきり言ってK課長が邪魔でした。

 

 余談: 食事終了後、お店のオネ−サンのお土産販売攻勢あり。

 15年前は、こんなことは無かったぞ! これも「市場経済導入」の影響か?

 98年の「台湾」・97年の「韓国」では、当たり前のように違和感がなっかたが、ここでは不思議な感じがしました。

 

午後9時30分過ぎ やっと「ホテル」に到着。 

 お宿は日中合弁:「ホテルニュ−オ−タニ長富宮」30階建

 (ちなみに、「長」は万里の長城で、「富」は富士山の意味だそうです。)

 チェックインして早く部屋でくつろぎた〜い。

 チャックインのためパスポ−トを各自提出。

 

<この旅最初で最大の ハプニングNO1>

   しかし、ここでいきなり、この旅最大のハプニング発生!

   なんとK課長が・・・パスポ−トを紛失。

一同大騒ぎ!(しかし、所詮は他人事か? ゴメンナサイ!)

 「大連で入国手続きしたのだから、その後どこで無くしたの?」

 先ほどのレストランでチャイナドレスのオネ−サンに見とれて落としたの?

 しっかり思い出そう〜・・・・・

 

【北京 長富宮飯店:大騒ぎの夜!!

パスポ−ト捜索中!)

 

大騒ぎの後、結論として。

 大連から北京までの飛行機の中(シ−トバックポケット)ではないかと、藁にもすがる気持ちで、ガイドさんが航空会社へ電話しましたら、見事にありました。

 良かった。よかった。ヨカッタネ、残留孤児にならなくて。

 K課長は、午後10時過ぎから、ガイドさんと一緒に再度「北京空港へ」2時間あまりのミッドナイト・オプショナルツア−へ…

 いってらっしゃ〜い。

 我々は、K課長の部屋で帰ってくるまでどんちゃん騒ぎでした。

 ちなみに待ってるあいだに、冷蔵庫の飲み物を全員で飲み尽くしました。

 

午前1時就寝 本日はこれにてオシマイ。

 

 

「11月18日(木)北京観光編」

 

午前6時30分 起床。 午前7時 朝食。 

 日本のホテル並のバイキングスタイルの朝食でした。

 15年前は、朝から中華料理の朝食だったのでチョッピリ残念です。

 

午前8時頃 ホテルを出発。  一路「万里の長城:八達嶺」へ。

 北京市内は、昨晩の印象どおり、15年前と比べて自転車が激減していました。

 北京市内の道路は、昔から道幅が広く片側5車線から7車線あり昔は、ほとんど自転車に埋め尽くされて川のようで、その中を車が、ポツンと走っていたものです。

 それが今では、自転車が片隅に追いやられ、自動車にとって替わられていました。

 

午前9時30分過ぎ 「万里の長城:八達嶺」 驚きの速さで到着。

 15年前は、3時間以上かかっていたのに。

 建国50周年の今年、夏に北京市外からここ八達嶺までの観光専用の高速道路が完成したために大幅な時間短縮を実現。

 これも「開放:市場経済」導入の影響か?

 

【万里の長城:八達嶺(男坂)】

<「女坂」から見た「男坂」(事情により封鎖中ゆえ人が少ない)>

 

 1時間ここで自由行動。

 通称「男坂」と「女坂」があり。「男坂」へ登頂。

 この日、アフリカの某国大統領が、見学に来るとのことで「女坂」は、一般人が立ち入り出来ないよう閉鎖されていました。

 ちなみに「女坂」は、名前の由来どおり比較的勾配が緩やかで、25年前かの田中角栄首相が日中国交回復の折にも登られたところです。

 私も15年前の84年秋に登りました。

 今回登頂した「男坂」は、15年前の春に来た時、初めて登ったところですが、勾配がきつく、場所によってはハシゴのような階段もあるところです。

 

【万里の長城 八達嶺:「男坂」急階段】

(私達、降りられるの?…中央:ThiekoAkemi両女史 )

 

 ここ「八達嶺」は、何度来ても感動できます。

 壮大な無駄な建築物(全長約5,250キロ:中国の1里は、日本の1里と違って約500メ-トル)とは言え、よくこんな物を重機も無い時代に人力で造ったものだと感心させられます。

 ここでの印象は、日本の修学旅行の団体が多かったことです。

 ほとんどが九州の高校で、私の印象では2〜3校位いるようでした。

 九州の学校だと東京や北海道へ出かけるよりも、中国あたりが安上がりで有意義な修学旅行なんでしょうね。

 

<ハプニング NO2>

 集合時間が近づいて、集合地点へ向かっているときに、それは起こった。

 「お約束的突発事態」 アフリカ某国大統領(どこの国ヤネン)が登場

 警備上の都合のためか、一般観光客の出入りが差し止めとなった。

 自動小銃を携帯した兵士がそこそこいる中、その場から出られなくなりました。

 う−。 スケジュ−ルが-! 動かざること10分余り。

 それは、突然起こった。 業を煮やした(?)中国人一般観光客(?)数人が、兵士の静止を聞かずに飛び出した。・・・

 後は集団心理: 五月雨的からあっという間に雪崩のように足止めをされていた我ら一般観光客(中国人観光客も多いけど日本の修学旅行生も多い)も後に続く。

 「ダイジョブかいな?」・「無警告で撃たれないやろうな?」・「ハラハラ・ドキドキ!」 (多少、脚色…)

 なんとか無事脱出成功!・・・・・午前11時頃 「八達嶺」出発。

 「さらば「八達嶺」また来たいぞ〜!」

 

午前11時30分 昼食

 ここでも日本の高校生集団(八達嶺とは別の団体)に遭遇。

 食事後レストランに併設されている。

 お土産物売り場(かなり広かった)を散策。 

午後1時前出発。

 

午後1時15分頃 明の十三陵の「定陵」に到着。

 ここは、明王朝13代の皇帝のお墓があるところです。

 地下に巨大な(?)地下の墓を造り、その上に人工的な山を造った挙句に万里の長城よろしくその山を城壁で囲んであります。

 さらにその周りには、「ここに墓がありますよ」とアピ−ルするがごとくミニ王宮風の建物が造られております。

 例えるなら「日光東照宮」が13個集まっていると考えればよろしいかと・・・

 

【明の十三陵:定陵】               【定陵:地下墓地出口付近】

 

<地下墓地は、建物後方の小山の下にあります。>

 「定陵」は、唯一地下まで発掘され、公開されている観光定番スポットです。

 ここも、私にとっては3回目の訪問です。

 「万里の長城:八達嶺」と違って私には、一度行けば充分かな・・・

午後2時30分頃「定陵」出発 一路北京市内へ。

 

午後4時30分頃 「王府井(ワンフ−チン)」到着。

 帰りは、高速道路を利用しなかったことと、市内の渋滞にはまり、2時間近く車の中で熟睡できました。

 ガイドの祝さん曰く。「王府井(ワンフ−チン)」は、日本で例えるならば「東京:銀座のようなところで、中国地方都市(田舎)からのお上りさんが買い物に来るところ。」だそうです。

 「銀座よりも上野・浅草のような気がする…」

 

【北京:王府井(ワンフ−チン)】

<自動車乗入れ禁止のため、歩行者天国>

 

 「北京市百貨店」(中国で一番古い百貨店)へ入店。

 同行の同僚のオネ−サマ方二人は、お買い物に励まれました。

 男四人は、することなし。

 しばし、散策・・・お散歩・・・ 前にあったショッピングセンタ−の方が立派だったような・・・
 午後5時30分過ぎの出発までヒマでした。

 

午後5時45分頃 「天安門広場」到着。

 すっかり日が暮れて夜の帳が降り、真っ暗でしたが、「天安門広場」は、今年の10月1日が中国建国50周年の記念の名残か、それとも後1ヶ月後に迫った「マカオ」返還のせいか、ライトアップされており綺麗でした。

 

【北京 天安門広場:天安門】

(ライトアップされた、「天安門」。中央の写真は、毛沢東。)

 

 実際「マカオ返還」(991220日ポルトガルより返還)のカウントダウンの巨大な秒読み時計があり、ちょうど、<270,000秒>を切ったところを目にしました。

 中国で、万里の長城・故宮(紫禁城)と並んで有名な観光スポットとはいえ、何度来てもここの広さには驚かされます。

 東西約1キロ弱、南北1.5キロ強。 100万人収容できると言われるのもうなづける広さです。

 単純計算 1,000×1,500=1,500,000

 

 84年10月1日の「中華人民共和国・建国35周年」のパレ−ドが、思い起こされました。

 広場に集まる100万人以上のマスゲ−ムは、まるで人の海。

 陸海空3軍の1時間の軍事パレ−ド(1000両に及ぶ戦車や装甲車・ミサイルetc)。

 まるで、大河の流れのような、1時間に及ぶ労働者・学生の市民パレ−ド。

 その晩の花火を含む市民祝賀会。

 

 

天安門広場に再び立って・・・

 

    遥かなる時を越えて想う日

 

少しだけまじめに!

 10年前、数十万人の学生・市民が民主自由化を叫んで立てこもった挙句に、最後には数百人(北京市内で数千人)がここで軍の装甲車に蹴散らされて命を落とした所です。 合掌。

 

【北京 天安門広場:人民英雄記念碑】

<10年前の天安門事件の際この記念碑周辺を中心に、

数万人の市民・学生がバリケ−ドを築き立てこもった。>

 

 それを思うとなんとも言えぬ気分になりました。

 誰も言わなかったけど、そう思ったのは、僕1人だけなのかな?

 15年前、「一衣帯水」(詳しい意味は聞かないでくれ。)の認識で日中友好(国交回復10周年)を記念して、なぜか私を含め(?)三千人の日本人が中国政府の招待で訪中しました。

 ここ「天安門広場」(84年10月1日の夜:建国35周年の記念日)を含めて、毎晩夜遅くまでホテルの部屋で中国の学生や若い労働者達と熱く彼らの国の将来を語った日が思い起こされました。

 84年10月1日の夜は、ここ「天安門広場」では、凄まじい爆竹の音とともに、日本と違って低空で華開く花火の火の粉を受けながら、熱く語らい興奮した若者たちに胴上げされて何百メ−トルも運ばれたっけ。

 胴上げというよりもお手玉の様に放り投げられて、自分自身が何万人もの「人の海」に翻弄された小舟の様だった。

 15年前のあの時ですら、当時の学生達は、我々日本人の青年に「近い将来の民主化」を熱く語っていました。

 「天安門事件」が起こったあの日は、日本も「昭和」から「平成」(まさか、新しい元号を頼りなげに発表した当時の小渕官房長官が総理大臣になるなんて)に変わった年で、私にとって、結婚1周年記念の平成元年でした。

 あの時、嫁さんと初めて「ディズニ−ランド」へ遊びに行っていました。

 ホテルのテレビに映る「CNN」の映像を遊びの疲れも忘れて深夜まで見ていたのを思い出しました。

 しかし、今や日々の暮らしに追われ、あの時の記憶も忘却の彼方へ。

 こうして、再び、36歳にしてここに立っている自分が不思議な気分でした。

 「あの日、熱く将来の中国を語っていた彼らは無事でいるのだろうか? 無事でいるのなら今日の中国の変貌をどのように見ているのだろうか?」

 「ましてや10年前、民主化を叫んで、銃弾や装甲車の前に倒れた彼らが、今の中国を見たらどう思うのだろうか?」 と柄にもなく考えてしまいました。

 「共産中国」の体制は変わらず、「自由経済」導入によって変わった中国。

 「市場経済導入」による「近代化」によって「共産主義」が薄れ、違う国に見える、この現実を…

 高層ビルが立ち並び、車も溢れ、夜の街も明るくなり、服装も15年前の「人民服」一色からカラフルになって、そこら中に「マクドナルド」や「ケンタッキ−」などのファ−ストフ−ド店が建ち並ぶ北京の町の変貌を・・・・・・・

 

 15年の歳月によって変わったこの国は、まさに驚きである。

 逆に日本は、果たしてこの15年で変わったのだろうか?

 柄にも無く、感慨深く想った20分余りの「天安門広場」の観光でした。

 

午後6時15分頃 北京ダック専門レストラン到着。天安門広場沿い、徒歩5分。

 実に15年ぶりの「北京ダックちゃん」。

 柄にも無いことを、ついさっきまで考えていたのもすっかり忘れ、食欲の虜に!

 今回の旅行では、元々「北京ダック」は設定されておらず、オプションでやってまいりました。 料金は、200元(約3,000円) 

 「嗚呼〜美味かった!」 私めには、日本で食べるより美味しかった。

 皮の芳ばしさがなんとも言えない。

 余談: ここでの店員のお土産販売攻勢が凄かった。

 

【北京ダックの店:お土産販売攻勢開始の図!】

<中央のオネ−サンとナオフミ君とのやりとりがおもしろかったです。>

午後7時30分頃出発。

 

午後7時50分頃 雑技団鑑賞(お約束的夜の観光コ−ス)

 雑技とは、「中国式室内サ−カス」です。

 これも3回目の鑑賞(以前見たのとは違う)のため、正直あまり興味なし。

 私は、座席でスヤスヤ、お休みしました。

 

この夜、K課長の中国限定「幻の名台詞」が誕生する!!(画像・左)

と、言っても単なる内輪ウケですが。

 

午後9時過ぎ ホテルへようやくご帰還。

 あ〜あ疲れた! ハ−ド・スケジュ−ルだ〜・・・・・

 身体は疲れていたのですが、昼間こまめに寝たせいか、なかなか寝付かれませんでした。 この日も、午前1時ごろ就寝。

(同室のナオフミ君は、10時前には熟睡でした。ホントこの子はよく寝る子だ!)

 

 

「11月19日(金)北京観光編 U」

 

午前6時30分 起床。 疲れのせいか、ホテルのモーニング・コールで起床。

 

午前7時 朝食。 内容は、昨日と変わらぬバイキングスタイル(メニュ−も一緒)

 

<K課長お騒がせ・ハプニング NO チョットだけVOL1>

 前日移動用の車の中にセカンドバック(貴重品?)の忘れもの。

 ほんと、懲りないけど幸運な方。

 

午前7時50分 ホテル出発。

 チェックアウトを済ませ、車に荷物を積み込む。

 

午前8時10分頃 フ−トン(北京の下町)観光。 

 二人乗り人力車(自転車)で朝の街へ。 途中民家に立ち寄り見学。

 二人乗り人力車(自転車)や北京の下町の風景などは、最近の映画で「レッド・コナ− 北京の二人/主演:リチャ−ド・ギア)のシ−ンでもありました。

 

【北京:フ−トン観光(人力車)】

「続・北京の二人」 リチャ−ド・ギア(T・K課長)と(Akemi女史)

それとも・・・「スピ−ド3・北京編」(?)>

 

午前9時頃 恭王府花園 皇帝の弟(親王)の住居だったところを見学。

(人力車は、ここまで)

 皇帝の弟の住まいといえども手抜き無し。 広い立派なものでした。

 今見た屋敷を記憶に刻み、紫禁城へ!

 余談:ここでも日本の修学旅行生が、いっぱい。

 

午前10時頃 「紫禁城」に到着。

 「紫禁城」、現在は「故宮博物院」。

 「天安門広場」に面した、明王朝・清王朝、数百年の皇帝の住居。

 住居(宮殿)としては、世界一の広さを誇るであろう建物です。

 

【北京 紫禁城:大和殿】

<日本の東大寺よりも大きいらしい!世界最大の木造建築物(?)>

 

 映画「ラストエンペラ−」(実際にロケも行われた所)と言えば、お判りいただけるでしょうか?

 ここも3度目ですが、何度来ても、ここの広さ、建物の大きさ、驚かされます。

 皇帝の弟の住居も一般的な基準では、充分広いのですが、ここ「紫禁城」の広さに比べたら比較になりましぇ〜ん!

 中国観光は、歩いて歩いてまた、歩く。 最短コ−スの観光で所要時間1時間半。

 普通は「半日コ−ス(約3時間)」です。

 ちなみに、「2日間コ−ス」もあるそうです。

 余談:やっはり、ここでも日本の修学旅行生が、いっぱい。

 

午後12時頃 昼食にありつく。 天安門広場側「民族文化宮」内のレストラン

 数百人収容できる大食堂に我々6人。

 もう何も申しません。

 しかし、料理はこの旅の中で一番バランスが良い「中華料理」でした。

午後1時過ぎ出発。

 

 午後1時20分頃 天壇公園到着。

 ここは、皇帝が毎年の幸運や豊作を祈願するための施設であったところです。

 建物自体は、円形の建物がメジャ−です。(旅行のパンフレットには、よく写真が載っています。私にとって初めての所でした。) 約1時間滞在。

 

【北京:天壇公園】

<私には、初めての所で良かったです。>

 

午後2時50分頃 免税店(北京市唯一)に到着

 50分のお買い物タイム。

 買物にはあまり興味はありませんが、あえて1つコメントします。

 首都にある免税店にしては、はっきり言ってたいしたことはありません。

 「韓国」(まあまあ)・「台湾」(たいしたもんだ)の免税店と比べると、圧倒的に「ブランド」の種類、品数が少ない。

 ちょっぴり、安心しました。 「開放経済と言ってもまだまだだな。」と!

 しかしながら、私はここで、お土産を購入いたしました。

 

午後4時30分頃 ルフト・ハンザ到着

 この春、北京市郊外にできた「ドイツ」・「韓国」・「中国」合弁の巨大ショッピングセンタ−(?)

 再び、1時間のお買物タイム。 (男性陣は、買物に飽きました。)

 女性陣は、お買物(中国ぽい土産購入のため)に再び燃えられました。

 

【北京 ルフトハンザ:正面入口】

<ショッピングに興味なく、ヒマを持て余すナオフミ君とK課長!>

 

 飽きたとはいえ、店内散策。 地上6階地下1階の北京一のショッピングセンタ−とのことですが、1フロアあたりの床面積は、例えるならば地元の「高岡サティ−」の1階よりも若干せまいのではないかと、思われました。

 

 

<散策レポ−ト:日本と比較した中国の物価と傾向>

 

「CDショップ編」

 日本のCDを多数発見。(安室チャン・SPEED・etc など、かなりの種類があって、ちょっとビックリ!)

 価格的には、アルバムCDが1枚、1,300円〜1,500円位でした。

 価格的には、日本の半分位ですが、中国人の平均所得(日本の15分の1と思われる。)から考えると7倍〜8倍位か!

 余談:そういえば、この日「北京首都体育館」(日本武道館に相当/約2万人収容)では、「チャゲ&飛鳥」(2日間公演)の初日とか。

 最近日本で見ないと思ったらこんな所で稼いでいたのね。

 それぞれソロでの公演は過去に実施していたそうですが「チャゲ&飛鳥」としては、初公演だそうです。

 ポケモンのビデオ(勿論中国語バ−ジョン)も大量に売っていました。

 「ピカチュ−は、強かった!!

 

「電気製品編」

 ほとんどが「日本製」(パナソニック・SONY・シャプ・サンヨ・ビクタ・日立など)、もしくは一部「韓国製」(三星など)。

 ただし、ほとんどが中国国内生産と思われるテレビ・ビデオ・ビデオカメラ・オ−ディオetcがかなりの面積で並べられていた。

 36インチのテレビが、日本円でだいたい30万円前後(ほぼ日本と同価格)。

 ビデオが、ピンキリで10万円〜20万円位(日本の倍位)。

 ビデオカメラが、25万円前後(ほとんどが8mmビデオ。一部デジタルビデオやデジタルカメラもあった。/輸入?)。

 多少高いものもあったが、ほぼ日本の5年前位の価格ではなかろうか?

 しかし日本との所得格差を考えると、電気製品は日本の15倍〜20倍位の価格と考えられる。

 15年前(当時の中国と日本の所得格差が1対20だった)、日本で一番安かった10万円程のビデオ(上海の百貨店で1台だけ展示されていた)が、当時中国で100万円(笑)していたことを考えると確かに「開放経済政策」導入による高度成長は、かなりの水準であることは確かです。

 当時は、テレビ(14インチ)・冷蔵庫(ワンドア150リットル位)・洗濯機(2層式)が中国人の3種の神器だった。

 ほとんど1種類しか店頭に並べられていなかったのに・・・ 格段の違いです。

 

「コラム編」

 たしかに、まだまだ日本とくらべて経済的に低いであろうが、12億の人口が生み出す、消費市場は、不気味である。

 ここのショッピングセンタ−にしても日本と比べたならば、たいしたものではないが、これだけ商品の種類や品数が豊富であるということは、それだけ需要があるということだ。

 15年前の百貨店は、衣料品ひとつを見ても品数・種類とも少なく暗いイメ−ジだったのに、今では人々の服装もカラフルになり、携帯電話も普及している。

 車も15年前とくらべて想像できないくらい増えている。

 ここのショッピングセンタ−の駐車場で、私の愛車「LEGEND・KA−9(ただし、白色/記念撮影済)」もとまっていた。

【北京 ルフトハンザ:正面駐車場】

 LEGEND-KA

<こんなマイナ−な車まで走っているなんて。感激で〜す。>

 

 人々の生活レベルも向上し、購買意欲も高いであろう。

 だが、しかし・・・・・ 共産主義国家のはずなのに、貧富の格差が生じているのではないだろうか?

 でなければ、一般人が、「ベンツ・セルシオ」を所有している一方で、数は半減したとはいえ、相変わらず多くの市民が「自転車」に乗ってたり、日本では見られない「大型連結バス」にすし詰め状態で移動しているのは信じられないことである。

 「開放経済政策」で高度成長したことは、確かだがこのまま行けば「中国」という国はどこへ行くのであろうか? 12億の人口。 政治体制と経済。

 

 「一人っ子政策の歪み」(20年前から実施されている人口抑制政策。2人目を生むと洒落にならないくらいの税金や社会保障費を負担させられる。)

 「小皇帝」の造語に表される異常なほどの過保護が社会問題化しているそうだ。

 20年前に生まれた一人っ子が大人になり中国社会に出始める21世紀がどのように変わって行くのか? 中国の偉大な文化と歴史は?

 ミレニアムの年に「中国」という国が、私には不気味に見えてしかたがない。

 

午後5時50頃 夕食

 内容的 には可も無く不可も無く。 食事時間は、約1時間。

 

午後6時45分頃 北京首都空港到着

 3日間案内してくれたガイドの祝さんとお別れ。

 また、「大連空港」まで我々6人だけで移動。

 

【北京空港:正面ゲ−ト前】

<ナオフミ君、お土産整理のため店開き! ここが欧米の空港だったらと思うと>

 

ハプニング NO チョットだけVOL

 我々が搭乗する「大連」行きの便の正しい(?)搭乗ゲ−トにいるはずなのに、「電光掲示板」に表示されずやきもきする。

 他の搭乗ゲ−トの表示は、刻一刻と変わるのに我々の航空券に表示されている搭乗ゲ−トの電光掲示板「便名」も表示されない。

 結局、故障していたと思われ、直前に表示されて、事無きを得ました。

 

午後9時前 大連空港到着! 無事、現地係(名前忘れました)と合流。

 

午後9時20分頃 一路、今夜のお宿へ。

 車内からの大連の市街は、200万人以上が住む街だけあって大都会でした。

 

午後9時45分頃 ホテル到着。(ガイドと同じく名前は、忘れました)

 北京と同じく日本資本の30階建てのツイン高層ホテルでした。

 ロビ−もきらびやかで、部屋もダブルベットのツインル−ムで、浴室の他にシャワールームも付属の豪華なホテルです。

 このホテルは、地下にバ−やカラオケボックス(日本語字幕)などの店があり、なんと首都北京のホテルと違いロビ−にサンタクロ−スを連想させるミニスカ−トの呼び込み(多分カラオケボックス)の綺麗なオネ−チャンがおりました。

「嗚呼、15年前とくらべて、すっかり中国は変革した。」(正直ショックでした。)

 なんという変わりよう!!  ど−なっちゃったの中国? (詳細は、下記緊急レポ−ト参照)

 夜も更けてまいりました。・・・ 明日は、日本だ・・・

<緊急レポ−ト>
「経済特区「 大連 」に見る中国多民族国家と驚きの夜・・・・・私は見た中国の変貌を!!」

 サンタクロ−ス風ミニスカ−トのオネ−チャン2人組の容姿は、カワイイ系とキレイ系
それぞれで、「北京にゃあんな娘なかなか見かけなかったぞ。
どうして、あんな美形が呼び込みしとるんじゃ!!」と驚きました。
BUT・しかし、そのくらいで驚いた私が愚か者・・・なんと客室に通じるエレベ−タ−ホ−ルの周辺には、無意味にたたずむ綺麗なオネ−サン達の集団が・・・・・
 部屋割りが終わり、帰りかけのガイド(名前忘れました)にそれとなく尋ねると予想通り
(当サイトにふさわしくない表現なので?以下カット)でした。

 冷やかしがてら午後11時過ぎに出動!!
前述のエレべ−タ−ホ−ルは勿論のこと、いるはいるは、ロビ−にもそれらしい人影が2人・3人と・・・・・
どれも美形で着ている服も体の線がくっきりとなかなかセクシ−な服ばかり。
皆、ナイスバディ−で我々に視線を送ってくる。
でも言葉わかんないからアプロ−チ出来ましぇ〜ん!
 中国は、漢民族を中心としたた多民族国家。彼女達もどことなく西洋風(ロシア?それとも昔のシルクロ−ドの影響か?)の血が混じっているように見受けられた。
はっきり言って首都北京で見た女性達とは、まったく異質なエキゾチックな女達であった。
ロビ−のコ−ヒ−ラウンジで観察すること1時間。
あきらかに(?)日*人と見受けられる40代・50代のオジさんが通るたびに、
(以下再びカット)していた。
 
(以下大幅カット)
 日付も変わり、午前零時過ぎ、コ−ヒ−ラウンジを撤収。いよいよ我らも、エレベ−タ−ホ−ルへ突入!!すると、なんと、なんと我々にも
(カットかっとカット!)の言葉でのアプロ−チ。ビックリ・ギックリの絶句。絶句。
 「嗚呼、15年前とくらべて、すっかり中国は変革した。」(正直ショックでした。)
 初めて中国を訪れた84年の3月に「桂林」でガイドから、売春婦が死刑(公開銃殺:日本の江戸時代みたいに市中引き回しの上で死罪)になったばかりと聞かされたことが、思い出されました。
 中国は、麻薬を所持しているだけでも自国民を死刑にする国だったのに・・・・・
 なんという変わりよう!!ど−なっちゃったの中国?
 夜も更けてまいりました。・・・明日は、日本だ・・・一人まじめに考えても仕方がない。
「だから、どうした。」・「それがどうした。」だよね。  
(一部文章重複)

 

「11月20日(土) 帰 国 編」

 

午前6時30分 ホテルのモ−ニングコ−ルで起床。

 前日(夜中)の疲れ(?)であやうく寝過ごすとこでした。

 

午前7時過ぎ ホテルの朝食バイキング

       「ニッポンのオバタリアンは、たくましかった!」

 我々の泊まったホテルには、「JA北海道婦人部-中国農村婦人交流団-ご一同様約100人余り」が宿泊されていました。

朝食バイキングのラウンジの光景は、筆舌しがたい空前絶後の有様でした。

 オバチャン達の料理の奪い合い。

 まるでそこは、バ−ゲン会場?

 あの光景は、今思い出しても身の毛がよだつ。

 前日までの疲れのせいもあり、すっかり食欲不振! う〜気持ち悪い。

 ナオフミ君曰く、「今頃、北海道の旦那達は、さぞ喜んで羽を伸ばしているでしょうね!」が大変心に染みました。

 

午前7時50分 ホテル出発

 

午前8時15分頃 大連空港到着!

 ガイドさん(名前覚えていない)とお別れ。

 パスポートコントロール無事通過。 フライトまで、免税店でブラブラ。

 空港の窓からは、中国空軍の戦闘機の離発着訓練が頻繁に見れました。

 

【大連空港:中国空軍機】

<「Mig-19」の中国バ−ジョン(30年以上前)と思われる旧型機種。>

 

午前9時25分(日本時間 午前10時25分 以下中国時間で記述)

:大連空港を離陸

 たったの3日なのに、長いようで短い旅でした。

 感慨深い中国を後にして、懐かしの(?)我祖国「日本・富山」へ。

 

K課長のこれでもかの ラスト・ハプニング NO5>

 

 富山まで後少しというところの午前11時30分頃最終伝説がはじまった。

 前の方から、免税品の販売を終えて配膳室へ帰る途中のスチュワ−デスをK課長が呼び止め壮絶な「お買物バトル」が開始された。

 始め2人で販売していたスチュワ−デスも言葉の壁(日本語が満足に話せない)と飛ぶように売れる光景に吸い寄せられるようにいつしか、4人になっていました。

 我々の客室後部は、まさにバーゲンセール状態であった。

 ほぼ満員とはいえ、あれだけ売れたのはきっと初めてだろな。

 スチュワ−デスの1人は、我々乗客が、降りる時になっても必死に電卓を叩きながら金勘定に励んでいました。

 最後の1時間は訳わからずで、午後12時28分懐かしの「富山空港」に到着。

 ところで、皆さん「シ−トベルト」しましたか?

 そうです、信じられないでしょうがお買い物の「嵐」のまま、気がついたら着陸していました。

 

午後1時前 我々は、無事通関手続きを済ませ、到着ロビ−へ

 

【富山空港:到着ロビ− 無事帰国】

<楽しい想い出を胸に、第2班の旅路はおしまい!・・・稲垣第2班団長とThieko女史>

 

1300(ヒトサンマルマルジ) 状況終了 撤収!!

 

<後 記>

 こうして、3泊4日の中国旅行は終了した。

 今まで、過去3回半(?)、職場の海外旅行の中で一番楽しく、

思いで深い旅行であった。

 過去の旅行を振り返ると信じられません(?:笑)・・・・・

 

 

 

<参 考>

  文章内の時間は、私のDV(デジタルビデオ)から抜粋しています。

 

 

 「感謝・多謝・再会」

                     おわり