≪きっかけ≫

昭和59年の秋に、当時の中国共産党胡燿邦総書記の発案によって将来の日中友好の掛け橋となる日本の青年3000人を、中華人民共和国建国35周年を記念した祝賀行事に招待されました。

私がこの「日中友好交流事業」を知ったのは、その年の春3月に祖父のお供(鞄持)で中国に渡航したときでした。

私にとって、初めての海外旅行でした。

中国文化の歴史に感動し、添乗員の方から秋に「日中友好の青年交流」があると聞きおよび、帰国後勢いでいろいろな伝手を頼りに応募しました。

観光旅行とは違った視点で少しでも中国をもっと知りたかったからです。

しかし、お気楽に交流事業の中身の詳細も知らずに応募したのが実施5ヶ月前と言うこともあり、半ば参加を諦めていました。

それが、幸運にも参加が認められて驚きました。

そのときの体験の記憶を頼りに以下に記します。

本来は、当時のレポ−トを載せるべきですが、今回は19年前の記憶で鮮明に印象に残っている部分で構成します。

(そのため、時系列に基づかずに記載しています。)

 熱烈歓迎は、言うに及ばず、
 1984年9月28日〜10月7日
 までの記録です。



 1984.09.28
 北京空港前 “熱烈歓迎”

≪参加前の思い≫

参加が決定してから、大それたものに参加することになったなぁと焦りました。

この「日中青年友好交流」は、日本全国から214団体・3000有余名が参加する予定の交流事業で、参加者の顔写真入り(モノクロ)の厚さ3cm弱の立派な参加者名簿が届いて度肝を抜かれました。

             
 参加者名簿です。

 
・正確には、厚み2.5cm
 ・ほぼ、全員の顔写真付き
  住所・TEL録
  私の宝物です。(笑)

参加者名簿を見ると芸能人を含む文化人、プロスポーツ関係などの著名人の団体やニュースでもよく名前を見る大学の運動選手達の団体などや、日本国政府の各省や政党ごとの若手職員、47都道府県で募集されていた団体(自治体職員や若手地方議会代議士)、国内8ブロックに分かれての国公立大学の学生達、表千家や裏千家のように全国的に名の通った団体で構成されていました。

また、一緒に届いた日程も自分が思っていたような気楽なものでなく、観光よりも各地での交流や建国祝賀などの公式行事が主体でした。

当初は、地元で募集されるような海外の姉妹都市を訪問する「青年の翼」や「青年の船」程度のレベルだと思っていたので、「大それたところに紛れ込んだなぁ。」と思いました。

≪日中友好協会と著名人の方々≫

私は、214団体の中の日中友好協会本部団に紛れ込めたのですが、参加者名簿を見て、団長が日中友好協会会長の参議院議員の方だったのでさらに驚きました。

日中友好協会からは、他に各地方ブロックから8団体が参加していました。

日中友好協会は、1972年に日本と中国の国交が回復するまで、唯一の中国との外交の窓口でした。

そのため、中国側の待遇も他の団体よりとびぬけて良かったです。

一例を挙げれば、団長は日中友好協会会長と言うこともあり、中国では党の要人しか乗れない中国国産車「紅旗」(排気量7000cc弱)が専用車でした。

我々一般団員の移動は、もちろん普通のバスでした。

団長の「紅旗」の後を追いかけてバス移動でしたが、常に白バイやパトカーの先導・護衛付で最初のうちは途惑いました。

当時の自分は、若くて怖いもの知らずだったので出発10日程前に行われた壮行会にも参加して、当時の中曽根首相も間近に見ることができました。

参加の団体の中には、芸能人・文化人などの著名人の団体もあり、私の人生の中であれだけ複数の有名人を間近で見たのは、後にも先にもあの期間以外ありません。

なぜなら訪中期間の10日間、私が所属した日中友好協会・本部団は、前述の芸能人・文化人の団体とほぼいつも行動を共にしていたからです。

北京空港を最初に降り立った時には、当時の藤島親方(若貴パパ・元大関・貴乃花、現在の二子山親方:相撲協会審判部長)と2ショットでNHKの7時のニュースに映っていたと帰国してから親戚や知人達から聞かされました。(団が違うのですが藤島親方とは、その後も飛行機の移動や観劇等で隣の席になる機会が多かったです。)

有名人の方は、他に作家の中山千夏さん(別名:栗本薫)、三国志の横山光輝氏、俳優の宇津井健氏(中国でも放映された「赤いシリ−ズ」で常に山口百恵の父親役で人気があった。)、女優の中野良子さんに木美保さん、当時子役で人気の小林綾子さん(おしんが中国でも放映され人気が凄かった。)らでした。

直接言葉を交わす機会は、なかなかありませんでしたが、有名人の方々と毎日のように行動を共にしていたせいか、どうも逆に天邪鬼的発想で有名人の方々のサインを貰いそびれました。

事前に判っていたら「色紙」くらい持っていったと思いますが。

自分は、天邪鬼なミーハーです。 笑

≪ドキュメント:1984年10月1日≫

【序章】

この日は、中華人民共和国の建国記念日『国慶節』です。

天安門広場で行われた「祝賀パレード」に招待された我々日本人青年たち三千有余名は、天安門の傍の人民大会堂側に設けられた特設スタンドから見ることができました。

我々が到着した時には既に、天安門広場には観光パンフレットの謳い文句のとおり百万を超える人が集まっていました。

このとき広場にいたのは、学校単位で動員された北京の子供達や学生、党や政府の職員とその家族だそうです。

100万人。

目の前に自分が住む富山県とほぼ同じ人数がいるなんてちょっと信じられませんでした。

【なにごとも世界最大?】

天安門広場近くでバスを降りてから特設スタンドまでに行く間に驚いたり、感心したりすることがありました。

1984/10/01
特設スタンドから望む天安門広場
100万人いるのかな?
1984/09/30
右側:人民英雄記念碑
中央:毛沢東記念堂

 

ひとつは、いたるところに戦車や自走砲に装甲車が隠されていたことです。

目の前に突然ドンと存在するとなかなか撮影しずらいものがありました。

その日は、15年ぶりに軍事パレ−ドが実施されるため万一の備えやパレ−ドに参加の車両が故障した時のバックアップに待機していると、当時通訳や案内役として私達の団に随行されていた中国共産党・外務弁公室の職員(以下随行員と標記)が教えてくれました。

中国は、ご存じのとおり共産党支配の国で、日本の政治体制と違い中国政府の外務省(正式には外務部)よりも党の外務弁公室の方が職員としての序列が上だそうです。

今でも共産党が統治する中国ですが、解放経済(資本主義経済)を導入して発展著しく民主国家と錯覚しがちです。

当時はまだ政治的な発言は控えるように暗黙の不文律があっただけに、我々についていただいた当の職員の方は、かなり深く教えてくださったと思います。

特設スタンドより
人民大会堂をバックに外務弁公室の職員の皆様と記念撮影
特設スタンドより
天安門

話が横にそれましたが、もうひとつ驚きそして感心したのが特設・臨時トイレでした。

天安門広場を訪れたことがある方なら判ると思いますが周囲に道路が走っており、鉄板を敷いた溝があります。

鉄板を敷いた溝は、広場の中にも何カ所かありますが鉄板がほとんど外されていました。

その上に何百・何千と電話ボックスのような小屋が置かれており100万人の集会をバックアップしています。

溝自体は、幅40cmほどで普通に跨げるのですが、深さが大人の背以上で3mくらいありました。

もうお判りでしょうが、小屋の中には便器など無く、プライバシーを守る目隠しだけの小屋です。

ちなみに昔は、その小屋すらなかったそうです。(男女ともそのままその場で・・・)

集会が終わると重い鉄板の蓋をして大量の水を流すために溝が深いそうです。

つまり、天安門広場はガイドブックどおりの世界最大の広場であり、裏を返せば世界最大の水洗トイレだったわけです。

【軍事パレ−ド】

この日行われた軍事パレ−ドは、中国にとって15年ぶりに行われたものでした。

当時は、ソビエト連邦が存在しており、毎年モスクワの赤の広場で行われる革命記念日の軍事パレ−ドを上回るとマスコミをはじめその筋には注目されていました。

私にとって最初で最後の体験なのでしょうが、世界最大規模と謳われた前評判どおりの軍事パレ−ドだったと思います。


行進1

行進2

ジ−プ部隊

自走ロケット砲

牽引野砲

6輪装甲車

兵員輸送装甲車

戦車部隊

自走野砲

一糸乱れぬ人民解放軍陸海空3軍の兵士2万名の行進に続き、戦車,兵員輸送や偵察などの各種装甲車,車両に牽引された野砲や自走砲,ロケットランチャー,地対空ミサイルなど、車両も膨大な数でした。

戦車については、自分でもカウントしていましたが性能は別として500両以上を数えました。(戦車だけでカウントする気が失せました。)

「目の前を通った数だけで日本の陸上自衛隊の火力以上だったのでは?」と思われ圧倒されました。

もちろん空には、戦闘機・爆撃機・他各種軍用機、ヘリコプタ−が5機・9機とV字型の編隊を組んで低空を飛んで行きました。

くどいようですが、性能は別として中国独自開発の物やソ連のコピ−兵器が目白押しでその物量は圧巻でした。

そしてさらに我々の目を釘付けにして息を呑んだのは、軍事パレードの最後に登場した弾道ミサイル群でした。


潜水艦発射弾道弾

地対空ミサイル

大陸間弾道弾

大陸間弾道弾

最初に地対艦ミサイル:シルクワームと思われる不格好な巡航ミサイル系が通り過ぎた後、全長10m程の小型の近距離弾道弾を始め中距離弾道弾が目の前を通り過ぎました。

クライマックスは、全長30mはあるのではないかと思われる開発直後の大陸間弾道弾でした。

核弾頭までは、搭載されていないデモンストレーション用『ハリボテ・ミサイル』でしょうが、核アレルギーを持つ我々日本人の特設スタンドは、弾道弾の集団に圧倒されて静かになりました。

この軍事パレ−ドは、中華人民共和国が自国の繁栄を世界にアピ−ルするものだったわけですが、もうひとつの側面として次代を担う日本人に特等席で見せつけ、深層心理に中国の力を植え付ける目的がこの「青年交流」にあったのではないかと今にして思いました。

『中国は、核を持っているから、もう日本には侵略させないぞ。』と弾道弾で我々にアピ−ルしていたのではないでしょうか?

【労働者パレ−ド】

1時間余り続いた軍事パレ−ドの次は、労働者の行進・パレ−ドでした。

工場などの職場単位で華やかに飾った大型トラックをベースにした花車を中心として、労働者が天安門の前を銅鑼や太鼓を鳴らし大歓声と共に賑やかに行進していきます。

マスゲ−ムを見るように統一の取れた集団もあれば、ただ小旗や花(造花)を振っているだけの集団と様々でした。

中には、我々のいる特設スタンドへ、手に持った花を投げ入れる集団もあり時ならぬ花の嵐となった時もありました。

統一の取れていた軍事パレードと違い、切れ間が無く天安門前の100m道路いっぱいに広がって行進していく様子は、まさに大河の流れを感じさせる物でした。

この労働者のパレ−ドだけで、約2時間余り続きました。

パレードに参加した労働者の正確な数は、当局も把握していなかったようで100万人とも200万人と言われていました。

我々の団に付いた随行員の方々も知りませんでした。

−以下は、私的な発想による単純計算−

2(時間)×4000m(時速)×100m(道幅)÷0.7人u=約110万人 

天安門広場自体には、最初から子供達を主体とした学生や党や政府の職員100万人が整然と整列していたので、3時間でいったい何人の人を見たのだろうと思いました。

人生の中であれだけ多くの兵器や人を見ることは、2度とないでしょうね。

【中南海】

朝からの建国35周年パレ−ドのあと、昼食を天安門広場の側の民族記念宮で食べたあと中南海へ向かいました。

中南海は、同じ天安門広場にある人民大会堂の斜め向かいにある中国要人の居住区の名称です。

普通の観光などでは、絶対に入れないところです。

天安門の裏に広大な敷地があるなんて普通では、ちょっと想像できませんでした。

噴水をそなえた大きな池や森のなかに点在する要人の家や党の行政ビルがありました。

ここで中国の偉人の一人である周恩来元首相(故人)の奥様に会えました。

我団の団長、日中友好協会会長の関係で会見がセッティングされていたようです。

中南海
毛沢東主席や周恩来首相が
語らったテラスで記念撮影
周恩来元首相の奥様(中央)

まったく関係ないのですが、自分の名字のせいで過去に外務大臣も経験し、国交がないころから日中友好に尽力された地元政治家(故人)の縁者と勘違いされるところでした。

(これで判る方には、私の名前がばれちゃいますが。)

あそこで、「はい、そうです。」なんて言っていたら、危うく身元詐称で捕まるところだったかな?と思ったりもします。

【天安門広場・夜の祝賀】・・・人民の海

 この日は、一日中「天安門広場」周辺で行事をこなしていました。

 夜にも天安門広場で祝賀の催しが行われ参加しました。

 天安門広場は、建国を祝う人々で埋め尽くされ、あちらこちらでいろいろな催しの輪ができていました。

 昼間の統制されていた祝賀と違い、あちこちで爆竹が鳴り響き無秩序なイメージでした。

ライトアップされた
「人民大会堂」
ライトアップされた
「天安門」
獅子舞・爆竹・花火

 さらに興奮のボルテージが上がるきっかけとなったのが、盛大な花火が打ち上がった時からでした。

 中国の花火は、日本の花火よりは派手さは無かったです。

しかし、「花火の起源となった国故か?」はたまた、「日本と比べて厳しい保安基準が無かったのか?」・・・

花火自体を広場のそれも人が密集しているところで打ち上げるのにも驚きましたが、低高度で花火が炸裂するので広場に火の粉が降ってくるのにも驚きました。

(ただし、火の粉はうまい具合に地上寸前に火が消えて燃えかすが落ちてくる状態です。)

 きっかけは、何だったのかいまだに判らないのですが、私を含め団員のうち何人かが突然胴上げ状態になりました。

 人の手から手へと次々と渡り「お手玉」か「木の葉」のように体が翻弄されました。

「胴上げ」・「お手玉」状態で撮影のためピンぼけです。

 胴上げお手玉状態から解放されるまで、時間にしてどれくらいか判らないくらいで100m以上は、移動していました。

 降り立った時には、ビデオや上着のポケットに入れていた小型カメラ、財布は無事でしたが、タバコやライターそして予備や撮影済みのフィルムがポケットから放り出されて無くなっていました。

 どれくらい凄まじい状況だったか、おわかりいただけたでしょうか?

 カメラの中のフィルムだけでその場の模様を撮影できなくて残念でした。

【ホテルの夜】

天安門広場の喧噪の場より、ホテルに戻っても我々の日程は、まだ終わっていませんでした。

今回の交流事業本来の青年交流がセットされていました。

北京大学・清華大学・人民大学の学生や20代・30代の若い労働者達とのディスカッションでした。

中日青年交流のため、皆さん日本語を話せるエリ−トばかりでした。

当局によって選ばれて来ている彼らでしたが、彼らの将来へ向けての熱意や意欲は、共産党のプロパガンダなどではなく、純粋に豊さへの憧れ情熱だったのではないかと思いました。

お気楽に、この日中青年交流の参加に応募してきた自分が少し恥ずかしかったです。

この晩から4年半後、私達を招待してくれた民主化・自由経済導入の旗頭である中国共産党総書記が失脚するきっかけとなった『天安門事件』が起きるのですが、「この夜に私達と熱く語らった青年達が犠牲となっていなければいいなぁ。」と今もあの晩のことを振り返る度に思っています。

【付記】

 1984年10月1日は、私の人生のなかで生涯克明に記憶にとどまる日になる事だけは、間違いないでしょうね。

 それから、4年後にあった自分の「華燭の典」のことは詳細に憶えていません。(笑)

ついでに書き添えるとヨーロッパへの新婚旅行も詳しく憶えていません。

≪人民大会堂の宴≫

この青年交流は、最初にも触れたように日本全国から214団体3000有余名が参加しています。

中国での宿泊事情を考慮して4方面・8コ−ス・各10日間で構成されています。

参加者全員が北京と上海を訪れて、間に地方都市の西安,南京,杭州,武漢のいずれかひとつを訪れる設定になっています。

4方面・8コ−スと言うのは、訪れる地方都市が同じでも北京が最初の訪問都市になる団もあれば最後になる団もあるからです。

この青年交流が中国の35周年の建国記念日『国慶節』の祝賀に企画されたため、参加者全員が北京で勢揃いするように日程の調整がなされていました。

ちなみに私の団は、9月28日出発で最初に「北京」を訪れ、訪問する地方都市「西安」のコ−スで10月7日に上海から帰国しました。

北京では、3000有余名全員参加の日程やコ−ス単位での日程が目白押しでした。

9月29日には、客席2万人収容可能な首都体育館での日中国交回復12周年(中途半端ですが)の記念式典とその後のアリ−ナでの中国の方々と交流も凄かったです。

前置きが長くなりましたが、9月29日の夜は、日本の国会議事堂にあたる人民大会堂で五千人参加の宴がありました。

人民大会堂 祝賀宴会中 宴会終了・撤収風景

日本人三千人と中国の党や政府機関からの二千人の大宴会です。

丸テーブル一つに10名が上記の比率で座ります。

1カ所で五千人を収容して宴会ができるホ−ルだと、人の影が邪魔をして隅から隅まで見渡すことが出来ません。

料理を運搬する方達だけでいったい何人いるのか検討もつきません。

ただ、場所柄が中国での最高立法府であるせいか、それとも初対面の中国のエリートさん達との同席のためか、今一歩盛りあがりに欠ける宴会だったです。

人民大会堂は当時、観光旅行で食事どころか入ることも出来ない場所なのですけどね。

例外として、私達のテーブルの近くには、有名人(芸能人・文化人等)の方々が多くいたので人だかりができていました。

そこから、日中友好と言うより、日々友好の輪が広がっていました。

ミーハーな集団。(ちょっと見苦しかった)

確かにこれだけ身近に有名人がいたらわからないでもないです。

私も偉そうなことも言えません。

このとき、小林綾子ちゃんや藤島親方(当時:現・二子山親方.日本相撲協会審判部長)と記念写真を撮ってしまいました。(笑)


<万里の長城>

友好交流の公式行事の中、観光日程もありました。

中国の観光と言えば多くの方が「万里の長城」をイメージされるのではないでしょうか?

遙か月面世界からも確認できる地球上唯一の人工建造物です。

東は山海関に始まり北京の北を経由して西はシルクロードの酒泉までの約4000kmに及ぶ国を境にする城壁です。

このときの訪問を含め、4回中国を訪れましたが、4回とも北京郊外の八達嶺の長城関跡へ行きました。

八達嶺は、日中国交回復のとき、当時の田中角栄元首相も訪れたところです。

観光ガイドブックやポスターなどのロケーションに使われる定番スポットです。

半年前に初めて訪れたばかりの場所だったのですが、短期間での様変わりに驚きました。

前回初めて訪れた時は、八達嶺の手前数kmの山道は未舗装道路だったのが舗装されていました。

対向の観光バスとすり返しにも時間がかかり崖下に落ちそうな錯覚になったひどい道路がすっかり立派な道路になっていたので驚いたわけです。

前回は、ホテルからの道路状況も悪く3時間以上もかかった道程でバスに酔ったり、八達嶺の手前数kmの山道も道幅も狭くて数kmに1時間くらいかかったりしました。

しかし今回は、パトカー・白バイの先導や一部の区間だけでしたが建設中の自動車道を使用したりしてホテルから2時間余りで八達嶺に到着しました。

八達嶺は、何度訪れてもその壮大なスケールに気圧されますが、この時はVIP待遇と短期間の突貫工事能力が記憶に残りました。



<古都・西安>

【城郭都市と他民族国家、そしてシルクロードの原点】

西安は、中国の地方都市の中でも著名な都市のひとつです。

シルクロードの出発・終点の都市であり、また西遊記でおなじみの三蔵法師が修行したところと言えばとおりが良いかもしれませんね。

始皇帝で有名な秦を始め中国各王朝の都として、歴史や文化など様様な点で有名な都市ではないでしょうか。

西安の城門 「大雁塔」
三蔵法師修行の場
西安事変・弾痕
蒋介石総統寝室

中国の古い都市の基本は、城郭都市です。

都市ごと城壁で囲んで外敵から防ごうとする発想です。

その拡大版が、紀元前に秦の始皇帝が建設を始めた万里の長城です。

国ごと囲んでしまおうとする壮大なスケールは島国日本には考えもつかない発想だと思います。

西安は、さすがに中国の歴史の長い古都であり城門や城壁が随所に残っていました。

内陸部の都市でもあり、シルクロードの東の出発点でもあり、町の住人や雰囲気も首都・北京と比較しても随分と違う印象を持ちました。

中国は、10億の人口の9割以上を漢民族が占める国ですが、多民族国家です。

街の人々にも「白い肌」・「褐色の肌」・「青い瞳」とヨーロッパや印度亜大陸の血を感じることができました。

【兵馬俑とNHK】

西安観光の目玉は、なんと言っても秦の始皇帝の墓と兵馬俑です。

始皇帝と宝物を護る等身大の陶器の兵隊達。

発掘され観光化された現場に広がる数百体の兵馬俑の状景は圧巻でした。

自分の目で見た兵馬俑はあくまで一部ということで、その数は、数千とも数万とも言われはっきりしていません。

自分の感想としては、宝物を墓と一緒に埋めるのは理解できるとしても、あれだけ精巧な等身大の素焼きの陶器を墓の周りに埋めるだけに作られたことは不思議に思えました。

目に見えるところに置いてこそ国威高揚に繋がると思えるのに、「埋めてしまったら意味がない。」と思ったわけです。

「兵馬俑博物館」
 入口前での記念撮影
 発掘現場の上にそのまま博物館が作られていました。
 中は、撮影禁止のためここで撮った写真は、これだけです。

そんな個人的な思いとは別にこの地で残念な出来事がありました。

結果的には、大事にはなりませんでしたがせっかくの日中友好で訪れた私達に嫌な出来事でした。

私達が兵馬俑の発掘公開現場から出ようとしたときに日本から取材のために来ていたNHKのテレビスタッフと中国当局(発掘現場の職員)とのトラブル現場に居合わせました。

双方の剣幕に警備の警官達も拳銃のホルスターのフックをはずし、手をあてがいながらその場を包囲していました。

原因は、NHK取材陣が撮影禁止の場所で取材・撮影許可を取って無かったためでした。

ただ、NHKのディレクターとおもわれる人物が「自分はシルクロ−ドの撮影の時も、ここで撮影をしているぞ。」と声を荒げ高飛車な態度で職員の方に接している姿は、同じ日本人としても恥ずかしかったです。

どう贔屓目に見ても非は、取材許可を取っていないNHKにありでした。

結局、私達に随行している対外友好協会の職員の方々が仲裁に入りNHKには、お引き取り願い事なきを得ました。

しかし、その日一日は、友好交流に水を差す出来事として多くの団員に暗い陰を落としました。

【またしても・・・】

西安でも日中友好の公式交流行事が数万人の規模で街一番の大きな公園で行われました。

天安門の記述にも書きましたが、ここ西安の公園の「公衆トイレ」も日本人の私から見て特筆できる印象深いものでございました。

たぶん、印象に深く残ったのは、私ばかりではなかったと思います。

数万人規模の集会ができるだけの広場がある公園だけあって、隣接する「公衆トイレ」も大きな建物でした。

外観は、細長い長屋のような建物で最初見たときは「トイレ」には見えませんでした。

長時間その場にいたので、私もお世話になりました。

中に入ると驚いたのは、何にも無い細長い空間でした。

壁の一方に溝が刻まれていたのは、当然ながら男性の小用として比較的抵抗無く利用できるのですが・・・

激しいカルチャーショックを受けたのが、溝と反対側に平行して等間隔に存在していた穴でした。

お判りとは思いますが、日本のように仕切りで囲まれた個室ではないのです。

実際に何人も中国の方がしゃがんでその穴をまたぎ・・・(中略)・・・用を済ます姿を見て言葉を失いました。

 察しのいい方なら、「男性用がそうならば、女性用はどうなの?」となるわけですが、想像どおり溝が無い分、両側の壁に平行して等間隔に穴があるだけだったそうです。

 21世紀を迎え大幅に発展した中国に今もあのような「公衆トイレ」が存在しているのかは知りませんが、当時の外国人が立ち寄る観光地の「トイレ」は少なくとも最低限の囲い(プライバシー)はありました。

一般の「公衆トイレ」を男性ですら驚きとその後の話題になるくらいだったので、日本人女性には相当なショックだったと思います。

 我慢できる方は、次の行き先のトイレに駆け込まれましたが、長蛇の列になったのは言うまでもありません。

 しかし、我慢できなかった方々は、日本人女性同士数人で人の壁を作ってなされたそうで、一様に生涯忘れられない経験とおっしゃっておられました。

 民族的な慣習の違いと言えばいいのか、大陸的なおおらかさと言えばいいのか。

 他に関連のある事例として、中国の幼児が履くズボンが後ろまで又割れする構造になっていました。

 ズボンを脱がなくても用を足せる構造の衣服です。

<上海>

北京・西安と続いて、最後に訪れた都市が上海でした。

人口的には、北京を上回る中国最大の都市です。

揚子江の畔の沿岸都市です。

中国建国を祝う「国慶節」は10月1日〜3日まで祝日として盛大に祝われます。

最後に訪れた時期的のためもありましたが、国慶節の興奮も醒め、我々が参加する国慶節祝賀行事も上海では無かったので、比較的印象の薄い訪問地でした。

我々の歓迎交流行事は、もちろんありました。

上海体育館での友好交流行事 上海文化宮で京劇を観劇中

しかし、上海での印象は、薄いなりにもあるものです。

前にも述べたとおり、コースの編成上各地方都市を訪問していた参加団体の半分の約1500名が再び帰国のために集結しました。

【歴史認識】

ここで意外なことを随行の対外友好協会職員から聞きました。

聞いたのは、我々の団だけかもしれませんが上海は近代史上、南京に並ぶ「反日感情」の強い都市だと聞きました。

そのためなのか、我々の警護の公安員(警官)も拳銃ではなく自動小銃を携行していたのが印象的でした。

上海は、かの「上海事変」の時に、日本海軍の空母赤城が世界で初めて艦載機による空爆を実施し、海軍陸戦隊を上陸させた地です。

振り返ってみれば、今回の各訪問地も因縁の深い地だと思いました。

南京は、教科書問題でも挙げられるように「南京大虐殺」。

西安は、日本の情報機関が暗躍し国民党と共産党を分裂させる結果となった「蒋介石・暗殺未遂事件」。

杭州は、国民党軍と日本軍との大きな戦闘があった戦場として。

武漢は、国民党政府が重慶に撤退する前の拠点でした。

天安門での軍事パレードにも感じましたが、今回の交流事業のコースや訪問都市にも何か作為的な陰を感じました。

ただ、今回の交流事業の参加費が中国側負担で実施されていることを思えば、中国側の意図が優先されるのは当たり前だと思います。

私は所謂「戦争を知らない世代」ですが、この時の経験が深く根付いていたので歴史認識には、罪悪感を抱いていた頃がありました。

罪悪感を抱いた自分に20年近く経った今、改めて「怖いなぁ〜」と思いました。

【万元戸】

上海での交流事業で一番印象に残ったのが、地味ですが「万元戸」宅の訪問でした。

当時の中国は、経済開放政策の一環で農業での人民公社(集団統制)の廃止が始まったところでした。

数年前から試験的に独自に収益を大幅に上げる農家が存在していました。

年間1万元以上(日本円で100万円)の収入のある農家を当時「万元戸」と呼んでいました。

当時の中国での大卒者の初任給が日本円で月1万円に満たないそうなので、いかに当時の中国では、高収入かお判りいただけると思います。

私達が訪れた「万元戸」にもTV・冷蔵庫・洗濯機に国産自家用車が揃ったお宅でした。

1万元どころか農業収入で4万元の年収と聞きました。

訪問した、「万元戸」のお宅の寝室 驚異のお昼ご飯

この「万元戸」で、昼食もご馳走になりました。

普通中国料理では、大皿の料理やスープを含めて15種類〜20種類の料理で、もてなされるそうです。

お腹いっぱいに料理を提供し、「もう食べられない。」とお客をギブアップさせるのが最高の歓待方法だと、この交流事業に参加した当初からことある毎に聞かされていました。

人民大会堂を始め公式晩餐会は、大抵20皿前後出されていました。

私達は、この時も同レベルだろうと勝手に想像していて、出てくる料理をハイペ−スでお腹に納めていました。

15皿を過ぎたあたりで「ス−プ」と「ご飯」が出てきたのでそろそろ終わりだなと思いました。(ス−プとご飯が、ある意味終了の合図だと聞いていたので。)

ところがその後もどんどん出るわで、最終的に40皿以上の料理が出ました。

しかも出る料理すべてが美味しくて残すのがもったいなかったのですが、さすがに自称大食いの私でも30皿を過ぎたところで降参いたしました。

私が最後のギブアップでございました。

まさに、その家のご当主は、中国古来の伝統的な歓待で私達をもてなしていただいたわけです。

食べられなかった10皿余りの料理の味が未だに気になっています。

【中国食文化の私的・見識】

また、余談ですがその日の晩、上海市人民政府主催の晩餐会で「豚の丸焼き」が出ましたが、私の団の団員は、ほとんど手が出ませんでした。

私は、しっかり食べましたが。・・・笑

「美味しかったです。」

このとき初めて「豚の丸焼き」を食べましたが、内部の肉よりも外側の皮に近い部分がパリパリと香ばしくて美味しかったです。

でも同じ香ばしい中国料理なら、「北京ダック」の方が私は断然好きです。

「北京ダック」は、蜂蜜たっぷりの壷に漬け込んだ、アヒルの丸焼き(ロ−スト)ですが皮の部分が美味しいですよね。

中国料理は、全体的に大好きです。

一概に中国料理と言っても広い国土を持つ中国では、地域性によってそれぞれ違ってきます。

「北京料理」・「上海料理」・「広東料理」・「四川料理」・「香港料理」に大別される他に、隣接する国々の料理がミックスした地域料理と様々あります。

「北京料理」は、宮廷料理とも言われ中国全土の料理の集大成と言ったところですよね。

「上海料理」自体は、シーフード中華のイメージでしょうか。

観光客が普通に食べる料理は、「北京料理」に近いごくオーソドックスな料理でした。

「広東料理」は、ある意味中華料理の代表と言えるかもしれません。

地理的に香港が近いので「香港料理=広東料理」のイメージがある方も多いと思います。

4本足で食べられないものは、「机と寝台だけ。」と言われるくらい何でも食材にしてしまう料理ですね。

いくら珍味と言われても私は「猿の脳味噌」は食べたくないです。

「四川料理」は、麻婆豆腐に代表される激辛料理ですよね。

辛い料理が大好きな私としては、一度は本場の赤唐辛子たっぷりの「四川料理」を味わってみたいと常々思っております。

「香港料理」自体は、「北京料理」よりも広く全中国的であり一部は、海鮮料理に特化したイメージもあります。

イギリスの租借地の影響で西洋的な要素もブレンドされて、外国人向けの味付けに変化したグロ−バルな料理とも言えますよね。

このとき、西安も訪れたわけですが、西安の食は、「北京料理」に近かったです。

ただし、地理的に内陸であり、歴史的・文化的にもシルクロードの影響からか肉系のこってりした料理が多かったです。

牛・豚・羊と美味しゅうございました。

西安での食の記憶は、羊のミルクを醗酵させて作った地酒でした。

甘酒に似たお酒で、アルコールに弱い私には飲みやすく何杯も飲んでしまいました。

アルコール度が30%近くあり、それを知らずに飲んだ私や何人かは、当然酔っ払って潰れてしまいました。

アルコールに弱い私には、お酒は語れませんが、中国はアルコールでも多彩な国だと思います。

中国のお酒のイメージは、マオタイ酒や白酒に代表されるようなアルコール度が60%位の強いお酒を始め地酒も結構アルコール度数が強いお酒が多いみたいです。

中国産のワインなどの果実酒でもアルコール度が高い傾向にあるみたいです。

話がアルコールの横道にそれてしまいましたが、宴会ではお猪口の様な小さいガラスのコップで、回数を忘れるくらいマオタイ酒のような強い酒での乾杯(カンペイ)が繰り返されました。

大概は、うまくごまかしていたのですが、西安の人民政府の宴会では、地酒である羊のミルクのお酒が美味しかったので、バンバン乾杯の杯を重ねてしまいました。

この日の宴会の終了や、どうやってホテルの部屋に帰ったかは、正確に憶えていません。

使用前 西安の料理・美味しかった 使用後

自分は、今でも普段から酒を飲まないので、前後不覚になるまでお酒を飲むことはないのです。

だから、逆に西安でお酒に潰れたことがハッキリと憶えているわけです。

1984/10/07・上海空港 帰国見送風景

<後記>

2003年現在、18年と3ヶ月前の出来事を振り返ったわけですが、今でもこうして鮮明に当時のことを振り返ることができます。

海外でのあれだけの人数の交流事業に私なんかが参加できたことは、今でも分不相応なことだったと思っています。

言うなれば「宝クジ」にあたったようなものですね。

できれば、本当の「宝クジ」に当選したいものですが・・・。

分不相応とは言っても、私の人生の中で1984年の9月末から10月上旬の10日間のことは、終生忘れられない出来事であることは間違いないです。

もう一度あの時の経験や興奮を味わうことなど、この先ないのだろうなぁと思うと少し寂しい気もします。

とは言っても、人生一寸先は、わかりません。

実は、中国から帰国して1ヶ月後の11月20日に、車に跳ねられて危うく命を失うところでした。

生存しているからこそ言えるのですが、ある意味これも「宝クジ」にあたったようなものですね。

全身打撲で特に右足が重症でその後7ヶ月入院し、退院後も半年のリハビリ生活を余儀なくされました。

この事故により、大学も1年留年してしまいました。

ちなみにリハビリ生活中に、嫁さんとも知り合うことになりました。

84年の正月にふとしたきっかけで中国旅行をすることになってから、同じ年に2度も中国へ渡航したことも含め、事故やその後の入院・リハビリ生活の1年強の時間を振り返ると「まさに人生の転機だったなぁ。」と実感してしまいます。

中国へこの年だけで2回。

留年して、5回生の時にもヨーロッパと中国に各1回。

その後も仕事や新婚旅行でヨーロッパや韓国、台湾、そして再び中国(99‘中国見聞録)と様々な国を旅するきっかけとなったわけです。

84年に持っていった「ベータムービー」と現在所有の片手で操作可能な「DV:デジタルビデオカメラ」や「デジカメ」の大きさや性能を比較しても凄いなぁと技術革新や進歩にも驚かされます。

今回の画像も当時の写真をスキャナーで読み込みましたが、「当時デジカメがあったらなぁ。」と思ったりもします。

できれば「ネガ」からスキャナーで読み込みしたかったのですが、さすがに18年も経過していると「ネガ」が見当たりませんでした。

写真自体若干色褪せしているので見難い画像で申し訳なかったです。

久しぶりにアルバムを見直すと実に自分が若かったかを改めて時代の経過を思い知らされます。

「この若者は、誰?」と自分でもあまりの変わりように笑いました。

アルバムを見ている自分とアルバムを見比べて妻が大笑いしてくれました。

彼女にとっても自分と知り合う前の私の姿なので、違和感しかないのでしょうね。

あまりに悔しかったので、当初は、自分が映る画像を載せるつもりがなかったのですが勢いで掲載しました。

本当別人です。(笑&号泣)

20年近く経過した今になって、自分のHPに掲載しようとこうしてキーボードを打っていること自体も不思議さを感じてしまいます。

時代の変遷を感じてしまいますね。

<御礼>

このような私的でかつ読みにくい文章を最後までお読みいただきありがとうございます。

かさねがさね御礼申しあげます。

お気づきの点やご感想などがありましたならば、「掲示板」にでも書き込んでいただければ嬉しいです。

それではいつの日か、次回「初めてのヨーロッパ・・・嵐編(仮題)」でお会いいたしましょう。

    平成15年2月2日

     HISASHI@TOYAMA




            

84’日中青年友好交流 

              〜一衣帯水〜


掲載日 2003/02/02